雨の日に傘を差さない人には、二種類いる。
傘を忘れた人。
雨なんて、どうでもいい人。
あの日の彼女が、どちらだったのか。
その時の僕には、まだわからなかった。
また、雨の日に。
六月の終わりだった。
昼から降ったり止んだりを繰り返していた雨は、夕方になる頃には街全体を白く煙らせていた。
駅から少し歩いたところにある、小さな喫茶店。
ガラス窓には雨粒が途切れることなく流れ落ち、店内にはコーヒー豆を挽く音と、古い洋楽が静かに流れていた。
窓際の席が、僕の定位置だった。
「今日は長居だね。」
カウンター越しにマスターが笑う。
六十代くらい。
必要以上に話しかけてこない人で、その距離感が心地よかった。
「雨なんで。」
「晴れでも来ればいいのに。」
「晴れの日はやることがあるので。」
「雨の日は?」
僕は窓の外を見る。
「考えごとです。」
マスターは苦笑いした。
「一番疲れるやつだ。」
僕も笑った。
図星だった。
仕事を辞めて一週間。
朝起きる時間も、昼を食べる時間も自由になった。
自由になったはずなのに、頭の中だけはずっと会社にいた。
あの時ああ言えばよかった。
もう少し頑張れたんじゃないか。
辞めるしかなかったのか。
考えたところで答えは出ない。
それでも考えてしまう。
だから雨の日だけ、この店へ来るようになった。
雨音は、不思議と頭の中を少し静かにしてくれる。
窓の外では、傘の花が行き交っている。
黒。
紺。
透明。
コンビニのビニール傘。
みんな急ぎ足だ。
家へ帰る人。
待ち合わせへ向かう人。
電車に乗り遅れそうな人。
雨の日でも、みんなちゃんと帰る場所がある。
「帰らないの?」
マスターが聞く。
「もう少し。」
「雨宿り?」
「そんなところです。」
マスターはコーヒーカップを拭きながら、
「変な若者だ。」
と笑った。
僕は伝票を持って席を立つ。
「ごちそうさまでした。」
「また雨降ったら。」
「たぶん来ます。」
店を出る。
思ったより雨は強かった。
青い傘を開く。
父からもらった古い傘だった。
骨が一本だけ少し曲がっている。
買い替えようと思いながら、結局今日まで使っている。
駅へ向かって歩き始める。
交差点の信号が青になる。
人の流れが一斉に動き出した。
その中で、一人だけ動かない人がいた。
女性だった。
三十歳前後だろうか。
白いブラウスは肩まで濡れ、黒いパンツの裾も雨を吸って色が濃くなっている。
傘は持っていない。
コンビニまで三十秒もかからない場所なのに、雨宿りもしない。
ただ立っていた。
信号が赤になる。
それでも動かない。
ふと、昔どこかで考えたことを思い出した。
雨の日に傘を差さない人には、二種類いる。
傘を忘れた人。
雨なんて、どうでもいい人。
彼女は、どっちなんだろう。
僕は歩き出す。
でも三歩進んで止まった。
振り返る。
まだいる。
雨粒が前髪を伝い、頬を流れていく。
泣いているようにも見えた。
もちろん雨だ。
そう思った。
でも、
そう思いたかっただけかもしれない。
僕はため息をつき、横断歩道を引き返した。
「あの。」
女性がゆっくり顔を上げる。
少し驚いたような表情だった。
「もしよかったら。」
青い傘を少し持ち上げる。

「使いませんか。」
彼女は傘を見て、それから僕を見る。
「でも……。」
「駅まで戻れば買えるので。」
「困りませんか?」
「少しは。」
正直に答えると、
彼女は少しだけ笑った。
「正直ですね。」
「嘘ついても仕方ないので。」
「そうですね。」
少しだけ沈黙が流れる。
雨だけが二人の間に落ちていた。
「知らない人から物を借りるのって。」
彼女が小さく言う。
「ちょっと苦手で。」
「ですよね。」
僕は傘を下ろした。
「すみません。」
「いえ。」
彼女も少し困ったように笑う。
「せっかく声を掛けてもらったのに。」
「じゃあ。」
僕はもう一度だけ傘を差し出した。
「返してください。」
「え?」
「また雨の日に。」
彼女は少し目を丸くする。
「返さなくていい、よりは安心しませんか。」
彼女は僕の顔を見て、
少しだけ考えて、
ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます。」
青い傘を受け取る。
雨音が少しだけ柔らかくなる。
「いい色ですね。」
彼女が傘の内側を見上げる。
「青、好きなんですか?」
「嫌いじゃないです。」
「私も。」
その笑顔は、ほんの少しだけ自然だった。
さっきまでとは違う。
肩の力が少し抜けたような笑顔だった。
「必ず返します。」
「急がなくて大丈夫です。」
「でも。」
彼女は少し照れたように笑う。
「借りっぱなしって、落ち着かないので。」
「じゃあ。」
僕も笑う。
「また、雨の日に。」
彼女は小さくうなずいた。
「また、雨の日に。」
青い傘がゆっくり人混みへ溶けていく。
僕は駅の売店で透明なビニール傘を一本買った。
九百円。
思ったより高いなと思いながらレジを済ませる。
透明な傘を開いて歩き出す。
さっきまで手にあった青い色は、もうどこにも見えなかった。
それでも、不思議と返ってくる気がした。
雨の日なら。
きっと。
また会いましたね
雨は約束を守る。
人は守れなくても、雨だけは季節が来ればちゃんと降る。
一週間ぶりの雨だった。
夕方六時。
喫茶店の窓を雨粒がゆっくり流れていく。
僕は窓際で文庫本を開いていた。
内容はほとんど頭に入っていなかった。
「今日は読んでないね。」
マスターがコーヒーを置く。
「そう見えます?」
「五分前から同じページ。」
「ばれましたか。」
マスターはクシャっと笑う。
「待ち合わせ?」
「違います。」
「そう。」
それ以上聞かなかった。
この人は、聞かない。
だから居心地がいい。
窓の外を見る。
横断歩道。
傘。
人。
車。
雨。
青い傘はまだ見えない。
……何を期待してるんだ。
自分でも少し笑ってしまう。
たった一度話しただけだ。
名前も知らない。
年齢も知らない。
もう会わない方が普通だ。
そう思ったときだった。
店の前で青い傘が止まった。
彼女だった。
ドアが開く。
小さなベルが鳴る。
店の中を見回して、
僕を見つける。
少しだけ安心したように彼女は笑った。
「本当にいた。」
「本当に来ましたね。」
「これを返しに。」
青い傘を持ち上げる。
「約束だったので。」
「雨の日にって。」
「はい。」
彼女は向かいへ座る。
マスターが何も聞かず、水を置いた。
「はい、いつものね。」
「私はじめてですよ。」
彼女が少し笑う。
「カフェオレをホットで一つ、おねがいします。」
「ご注文ありがとう。」
マスターは厨房へ戻った。
「いいお店ですね。」
彼女が店内を見回す。
「落ち着きます。」
「そうなんですよね、だから来てます。」
「雨の日だけ?」
「雨の日だけ。」
「変わってますね。」
「そう言われるの三回目です。」
「そんなに言いました?」
「言われました。」
彼女は声を出して笑った。
まるで太陽みたいに。

初めてだった。
その笑顔を見て、
ああ、この人は笑える人なんだ。
と思った。
「返します。あの時は、ありがとうございました!」
青い傘を差し出す。
「今日は帰りどうするんですか。」
「コンビニで買います。」
「じゃあ。」
彼女は少し迷う。
「もう少し借りてもいいですか。」
「返しに来たのに?」
「返したかったんですけど。」
「けど?」
「……まだ雨、止みそうにないので。」
僕は笑う。
「合理的ですね。」
「よくいわれます。」
彼女も笑う。
その空気が心地よかった。
「お仕事帰りですか。」
僕が聞く。
彼女はうなずく。
「今日は少し早く終わって。」
「お疲れさまでした。」
「ありがとうございます。」
コーヒーが運ばれてくる。
彼女はカフェオレ。
砂糖を二本入れた。
「甘いの好きなんですね。」
「疲れてる日は。」
「今日は疲れてる?」
少しだけ間。
「……そうですね。」
カップを両手で包む。
湯気の向こうで、
彼女の表情が少しだけ曇った。
「仕事、大変なんですか。」
「仕事も、ね。」
“も”。
その一文字だけが残った。
僕は聞かなかった。
彼女も続けなかった。
雨音だけが静かに続いていた。
「雨、好きですか。」
彼女が聞く。
「好きですよ。」
「どうして?」
「街が少しだけ静かになるので。」
「それだけ?」
「それだけです。」
彼女は窓の外を見る。
「私は。」
少し考えてから、
小さく笑った。
「雨の日だけは。」
「はい。」
「急いで帰らなくても、言い訳できるので。」
僕はその言葉を聞いて、
初めて彼女の背中にあるものを想像した。
でも、
想像するだけにした。
「帰りたくない日って。」
僕が言う。
「ありますもんね。」
彼女は驚いたように僕を見た。
「あります。」
その一言だけだった。
でも、
その一言が、
今日ここへ来た理由だった気がした。
3度目の雨
三度目の雨は、前より少しだけ遅い時間に降り始めた。
店へ入ると、彼女はもうカウンター席に座っていた。
窓際ではなく、今日はマスターの正面。
「こんばんは。」
僕が声をかけると、彼女は振り返って笑った。
「今日は私の方が先でした。」
「珍しいですね。」
「ちょっとだけ逃げてきました。」
「仕事から?」
彼女は首を横に振った。
「……家から。」
それ以上は聞かなかった。
マスターが僕の前にブレンドを置く。
彼女の前にはカフェオレ。
砂糖が二本。
「今日は甘いやつ。」
マスターが笑う。
「疲れてる日は。」
彼女も笑って答えた。
「覚えられてますね。」
「雨の日のお客さんは少ないから。」
店内には静かなピアノが流れていた。
窓の外では、街灯に照らされた雨が細く揺れている。
「この前。」
彼女がカップを見つめたまま言った。
「帰りたくない日ってありますよね、って言ってましたよね。」
「言いましたね。」
「あれ。」
少しだけ笑う。
「ちょっと救われました。」
僕は何も言わず、コーヒーを口に運んだ。
「帰りたくないって言うと。」
彼女は続ける。
「家が嫌なのって聞かれるんです。」
「違うんですか。」
「嫌じゃないです。」
即答だった。
でも、そのあと少しだけ間があった。
「むしろ。」
「安心できる場所です。」
「なのに。」
彼女は苦笑いした。
「帰りたくない日があるんです。」
雨音だけが二人の間を流れる。
「変ですよね。」
「変じゃないと思います。」
彼女は少し驚いたように僕を見る。
「安心できる場所でも。」
僕は窓の外へ目を向けた。
「帰る前に、一人になりたい日くらいあります。」
「……あります、よね?」
「あります。」
「よかった。」
彼女は本当にほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、
この人はずっと、
「そんなこと思うのは自分だけなんじゃないか」
と思っていたのかもしれない。
「私、婚約者がいるんです。」
彼女は、不意にそう言った。

僕はカップを置く。
「そうなんですね。」
「近いうちに結婚すると思います。」
「おめでとうございます。」
そう言うと、
彼女は少し困ったように笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、
嬉しそうには見えなかった。
「いい人なんです。」
彼女は続けた。
「優しくて。」
「真面目で。」
「ちゃんと将来のことも考えてくれて。」
「母も喜んでます。」
「友達にも。」
「その人なら安心だねって。」
そこまで言って、
彼女は黙った。
僕は待った。
「……安心なんです。」
小さな声だった。
「でも。」
また、その言葉だった。
“でも”
彼女はカフェオレを見つめたまま言う。
「安心と幸せって。」
「同じなんでしょうか。」
僕はすぐには答えなかった。
コーヒーを一口飲む。
窓の外では、誰かが青い傘を差して歩いていく。
「わかりません。」
僕は言った。
「人それぞれだと思います。」
彼女は少し肩を落とした。
「ですよね。」
「でも。」
僕は彼女を見る。
「一つだけ思ったことがあります。」
「なんですか?」
「あなたは。」
少しだけ言葉を探す。
「幸せになりたいんじゃなくて。」
彼女は静かに僕を見ていた。
「失敗したくないだけなんじゃないですか。」
彼女の表情が止まる。
雨音だけが聞こえる。
店内の時計が、小さく時を刻んだ。
彼女は何か言おうとして、
やめた。
そして、小さく笑った。
「……そうかもしれません。」
その声は、
自分に言い聞かせるようだった。
マスターが二人の空いたグラスを下げる。
何も聞かない。
何も言わない。
ただ、新しい水を置いていく。
彼女はその水を一口飲み、
静かに立ち上がった。
「今日は帰ります。」
「傘、次回でもいいですか?」
「大丈夫ですよ。」
彼女は青い傘を手に取る。
「雨の日に。」
「また、雨の日に。」
彼女は店を出ていく。
ドアベルが鳴る。
その背中を見送りながら、
僕は初めて思った。
この人には、雨が似合いすぎる。
でも本当は、
雨なんて似合わない人生を歩いてほしかった。
彼女の背中が、雨の向こうへ溶けていく。
青い傘だけが、ゆっくりと人混みを流れていった。
僕は冷めかけたコーヒーを一口飲む。
少しだけ苦かった。
「婚約者がいるんです。」
その言葉が、まだ店のどこかに残っている気がした。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
雨の日に何度か話しただけの人。
それなのに。
胸の奥に、小さな石が転がったような違和感だけが残る。
それが何なのか、考えないようにした。
考えてしまえば、
もう雨の日を待ってしまう気がしたから。
雨の終わり
店を出る頃には、雨は少し弱くなっていた。
彼女は青い傘を開く。
今日も彼女は傘を帰す気はなさそう。
僕は少しほっとしていた。
「今日もありがとうございました。」
「こちらこそ。」
「また。」
彼女は少し笑う。
「雨の日に。」
「また、雨の日に。」
ベルが鳴る。
ドアが閉まる。
青い傘は雨の街へゆっくり溶けていった。
僕はしばらくその背中を見送っていた。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
雨の日だけ会う人。
それで十分だと思っていた。
……思おうとしていた。
「行っちゃったね。」
マスターがカップを片づけながら言う。
「はい。」
「いい子だった。」
「そうですね。」
マスターは食器を洗いながら続けた。
「雨の日しか来ない二人って、不思議な縁もあるもんだ。」
僕は笑う。
「そんな大げさな。」
「そうか?」
「たまたまですよ。」
そう言いながら、窓の外を見る。
青い傘はもう見えなかった。
その時だった。
マスターがふと思い出したように言う。
「そういえば。」
「はい。」
「明日、発つんだったな。」
僕は少しだけ手を止める。
「……はい。」

「寂しくなるな。」
「たまには帰ってきますよ。」
「雨の日に?」
「どうでしょう。」
二人で少し笑った。
伝票を受け取り、財布を出す。
「ごちそうさまでした。」
「向こうでも、考え込みすぎるなよ。」
「気をつけます。」
「いや。」
マスターは笑う。
「たぶん無理だな。」
「ばれてますね。」
店を出る。
雨はほとんど止んでいた。
街にはまだ雨の匂いだけが残っている。
明日は晴れるらしい。
天気予報がそう言っていた。
だから、もう彼女には会えない気がした。
それでも。
雨の日が来るたびに、
あの青い傘を探してしまうんだろう。
そんな予感だけが、
胸の奥に静かに残っていた。
(第一話 終)


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