第一話 「会社が潰れる夜」

残り一手劇場

雨は、東京の輪郭を少しずつ曖昧にしていた。

神田のオフィス街は、昼間ならせわしなく人が行き交う。けれど夜になると、ビルの谷間を流れる空気だけが急に目立つ。白い街灯に照らされたアスファルトは濡れて、まるで誰かが黒い床を磨き上げたみたいに光っていた。

神谷レンは、コンビニの前に立っていた。

左手に缶コーヒー。右手にスマートフォン。スーツの肩には、朝から積もった疲労がそのまま乗っていた。

プシュッ、と缶を開ける音だけがやけに大きく聞こえた。

一口飲む。

ぬるい。

「……最悪だな」

誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。

レンは三十二歳だった。

データ分析会社、アークデータの社員。肩書だけ聞けばそれなりに聞こえるが、実際の仕事は泥くさい。企業の売上データを整えて、レポートを作って、プレゼン用のグラフを作り、たまにクライアントの都合で数字を何度も並べ替える。分析というより、数字の機嫌取りに近い。

朝から晩までモニターを見つめる生活。

気がつけば、季節がひとつ終わっている。

レンはスマホの画面を見た。

今日の夕方、自分で撮ったメモの写真が表示されている。

売上推移。出荷数。在庫。受注予測。

城南テックという中堅IT企業のデータだった。

何度見ても、妙だった。

グラフが綺麗すぎる。

売上というものは、本来もっと汚い。季節や景気や人的ミスや営業の気分や天気にまで影響されて、波打つ。人間の作る数字なんて、だいたい少し歪んでいる。それが普通だ。

でも城南テックの売上推移だけは違った。

綺麗なのだ。

整いすぎている。

まるで、最初から「こう見せたい」と決めて書いた線みたいに。

レンは眉を寄せた。

「……合わないんだよな」

出荷数と売上。

受注と在庫。

それぞれの数字は一見つながっているのに、全体で見ると、どこかひとつだけ呼吸が合っていない。

数字には癖がある。

嘘をつくと、どこかで息継ぎに失敗する。

レンはその違和感を、うまく言葉にできないでいた。

その時だった。

スマホが震えた。

知らない番号。

レンは少しだけためらった。営業電話なら無視したかったし、今は誰とも話したくなかった。だが、指は習慣みたいに画面を滑っていた。

「もしもし」

数秒、沈黙。

雨の音が先に返ってくる。

それから、女の声がした。

「神谷レンさんですね」

静かな声だった。

低くも高くもない。感情を削いで、必要な音だけを残したみたいな声。

レンは缶コーヒーを持ち直した。

「そうですけど」

女は言った。

「あなたの会社」

一拍置く。

「近いうちに潰れます」

レンは思わず笑った。

「新しいタイプの営業ですか?」

「違います」

「じゃあ占い?」

「それも違います」

声は落ち着いたままだ。

ふざけていない。むしろその真面目さが不気味だった。

レンは顔をしかめる。

「誰ですか」

「黒崎ミナト」

聞き覚えはなかった。

「知らない名前ですね」

「でしょうね」

「で、黒崎さん」

レンはわざと軽い調子で言った。

「うちの会社が潰れるって、どういう根拠で?」

女――ミナトは答えた。

「今日、あなたは城南テックのデータを見た」

レンの表情が少しだけ止まる。

「……なんでそれを」

「違和感を覚えたはずです」

レンは無言になる。

「売上推移が綺麗すぎる」

ミナトの声が、雨音の向こうから正確に届く。

「出荷と在庫の整合性も取れていない。数字そのものは合っているように見えて、全体では合っていない」

レンはコンビニのガラスに映る自分を見た。

疲れた顔だった。

「……誰なんだよ、あんた」

ミナトはその問いに正面から答えなかった。

「アークデータは、城南テックの数字を加工しています」

「加工?」

「言い換えましょうか」

少し間を置く。

「改ざんです」

レンは笑えなかった。

車のヘッドライトが通り過ぎ、濡れた道路に白い筋を引く。

「そんなわけない」

「あります」

「証拠は?」

「これから出ます」

「は?」

「あなたの会社、今夜中に警察が入ります」

レンは何も言えなかった。

その沈黙を、ミナトは肯定とみなしたのかもしれない。

「城南テックの株価は明日、落ちます」

レンはようやく言葉を絞り出した。

「待ってくれ」

「何をですか」

「話が飛びすぎてる。うちの会社がデータ改ざんしてて、そのせいで株価が落ちる? そんな単純な話じゃないだろ」

「単純です」

ミナトは言った。

「市場は、思っているより単純です」

「どういう意味だ」

「業績が伸びているように見せる」

「……」

「投資家は買う」

「……」

「買われれば、株価は上がる」

レンは缶を強く握った。へこんだ音がした。

「それだけで?」

「十分です」

「じゃあ、落ちる理由は」

「作った数字は、どこかで破綻します」

ミナトの声は淡々としている。

「嘘の数字で積み上がった株価は、崩れるときは早い」

レンはふっと息を吐いた。

自分の中で、ひとつの記憶が浮かび上がる。

今日の夕方。会議室。上司の作った資料。城南テックの売上見込み。少しだけ不自然な増加率。誰もそこに触れなかったこと。

いや、触れられなかったのか。

「……なんで俺に電話した」

レンは聞いた。

「あなたが気づいたからです」

「いや、別に。確証なんか」

「確証がある人は、もう動けません」

レンは眉を寄せる。

「どういう意味だ」

「神谷さん」

ミナトは言った。

「今どこにいますか」

「会社の近く」

「なら、後ろを見てください」

レンはゆっくり振り返った。

雨の向こう。

通りの先。

赤い光が見えた。

パトカーだった。

一台。

その後ろにもう一台。

さらにもう一台。

三台のパトカーが、雨に滲んだ光を撒きながら、アークデータのビルの前で止まる。

レンはしばらく、その光景を理解できなかった。

警察官が車から降りる。

ビルの入口に向かう。

自動ドアが開き、閉じる。

ミナトの声だけが、耳に残る。

「言いましたよね」

レンはかすれた声で言う。

「……なんなんだよ、これ」

「始まりです」

「何の」

「あなたの人生の」

一拍。

「それと、ゲームの」

レンは目を細めた。

「ゲーム?」

「市場のゲームです」

「意味が分からない」

「今はまだ」

レンはパトカーの赤い回転灯を見つめた。

その光が雨粒ごとに砕けて、濡れた歩道に流れていく。

「黒崎」

「はい」

「お前、誰なんだ」

電話の向こうで、ほんの少しだけ呼吸の間があった。

「蒼星リサーチ」

「は?」

「金融調査会社です」

レンは乾いた笑いを漏らした。

「そんな会社聞いたことない」

「小さいので」

「小さいって何人だよ」

「四人です」

「少な」

「不足です」

「人手?」

「ええ」

レンはようやく、頭の中で何かがつながるのを感じた。

「……俺を引き込むつもりか」

「まだ誘っていません」

「今のが誘いじゃないなら、脅迫だろ」

「考え方は自由です」

レンは額を押さえた。

「俺、今日で無職なんだけど」

「知っています」

「なんで知ってる」

「今、アークデータは終わりました」

雨の音。

警察無線の音。

遠くで誰かが傘を閉じる音。

ミナトは続ける。

「神谷さん」

「なんだ」

「数字の嘘に気づける人は、多くありません」

レンは黙った。

「だから、あなたに電話しました」

「光栄だな」

「そうでもないでしょう」

「そうでもない」

ミナトは少しだけ息をついた気がした。

「また連絡します」

「待て」

「はい」

「一つだけ答えろ」

「何ですか」

レンはパトカーを見る。

警察官がビルの中を慌ただしく動いているのが、ガラス越しに少しだけ見えた。

「城南テックの株価、明日どれくらい落ちる」

電話の向こうで沈黙が落ちる。

それは迷いではなく、計算の間みたいだった。

「今日の終値は一八三〇円」

レンは息を止める。

「明日の後場には、一〇〇〇円を割ります」

「……」

「三日で七〇〇円台」

レンは苦笑した。

「そんなバカな」

ミナトは静かに言った。

「神谷さん」

「何」

「バカみたいなことが起きるのが、市場です」

通話が切れた。

レンはスマホを見つめる。

画面はもう黒い。

コンビニのガラスに映る自分は、さっきより少しだけ顔色が悪かった。

アークデータのビルの前では、警察がさらに増えていた。

上司の姿が一瞬だけ見えた。ネクタイが曲がっている。普段なら絶対にそんなことはない人だった。

レンは缶コーヒーを飲み干した。

ぬるくて、まずかった。

「……終わったか」

その言葉が、誰のことを指しているのか、自分でも分からなかった。

会社か。

仕事か。

それとも、昨日までの自分か。

スマホがもう一度震えた。

メッセージが一通だけ届いている。

差出人は、さっきの番号。

明日9:47、城南テックを見てください

レンはその時刻を見て、少しだけ眉をひそめた。

中途半端だ。

10時でも9時半でもない。

9時47分。

妙に具体的で、だからこそ嫌な感じがした。

もう一通届く。

そこから崩れます

レンは空を見上げた。

雨は止みそうもなかった。

その夜、神谷レンは帰宅しても眠れなかった。

ワンルームの部屋は静かだった。

冷蔵庫の音だけが、たまに思い出したように鳴る。

スーツを脱いで、ネクタイを外して、テレビをつけた。どのチャンネルでも、どこか別の世界のニュースばかり流れていた。自分の会社のことはまだどこにも出ていない。

テーブルの上のスマホには、求人サイトの履歴が残っている。

年収。勤務地。リモート可。

そんな言葉の列が、今だけやけに空疎だった。

レンはノートパソコンを開いた。

城南テックの株価を表示する。

時間外取引はまだ静かだ。

1830円。

画面の数字は無表情だった。

人がどれだけ不安でも、画面の向こうの数字は少しも同情しない。

レンはふと、今日の資料を思い出す。

あの綺麗すぎるグラフ。

上司が最後に言った、「こういう見せ方の方がクライアントに刺さるから」という言葉。

刺さる。

レンは苦笑した。

「刺さる、ね」

誰に。

投資家にか。

銀行にか。

それとも、明日崩れる誰かの人生にか。

パソコンの画面を見つめていると、ふと、一番下の出来高の欄が目に入った。

いつもより多い。

いや、異常に多い。

レンは画面を拡大した。

売り注文が妙に偏っている。

大口の売りが、まるで一定のリズムで置かれているみたいに並んでいる。

偶然にしては綺麗すぎる。

「……なんだこれ」

独り言が、狭い部屋に落ちる。

その瞬間、またスマホが震えた。

今度は通話ではなかった。

非通知の通知でも、ミナトでもない。

見知らぬアドレスから、メールが一通。

件名だけが表示される。

あと一手です

レンは固まった。

本文はない。

件名だけ。

送信元を開こうとした瞬間、メールは消えた。

画面の上から下へ、まるで最初から存在しなかったみたいに消えた。

レンはしばらくスマホを見つめていた。

「……は?」

もう一度受信箱を開く。

何もない。

迷惑メールにも、ゴミ箱にもない。

部屋の中が急に寒くなった気がした。

窓の外ではまだ雨が降っている。

ネオンが濡れたガラスに揺れていた。

レンはパソコンの画面に視線を戻した。

城南テック

1830

その数字が、さっきより少しだけ不気味に見えた。

時計を見る。

午前一時十二分。

明日の9時47分まで、まだ長い。

けれどレンは、その時にはもう、自分が元の場所には戻れないことをなんとなく知っていた。

会社は終わった。

仕事も、多分終わった。

でも、終わったのはそこまでじゃない。

何かが始まっている。

ゆっくり。

確実に。

誰かの意思で。

レンは部屋の灯りを消した。

暗い部屋の中で、ノートパソコンの画面だけが青白く光っている。

株価チャートは、心電図みたいに静かだった。

だが、その静けさの下で、もう見えない何かが動いていた。

そして翌朝、9時47分。

城南テックの株価は、ミナトの言葉どおり、崖みたいに落ち始めることになる。

レンはまだ知らない。

その一本の線が、会社を潰し、人を壊し、やがて人を殺すことになると。

そして、あの消えたメールの件名――

あと一手です

その言葉が、このゲームの最初の合図だったことを。

必要ならこのまま続けて、

第2話をこの第1話のトーンに完全に合わせて書き直す。

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