書店には、独特の匂いがある。
僕はこの匂いが好きだ。
その匂いに手招きされるようにして、
気づけば書店の中にいた。
特別な理由はなかった。
仕事帰り、寄り道をするつもりでもなかったはずなのに、
自動ドアの前で足が止まっていた。
読みたい本があったわけでも、
探している答えがあったわけでもない。
ただ、
「何か変わるかもしれない場所」に、
無意識に引き寄せられただけだった。
一冊の本が、目に留まった。
棚から抜き出した時、
手応えがあった。
装丁も悪くない。
タイトルも嫌いじゃない。
数ページめくってみても、
拒絶するほどの違和感はなかった。
「これは、ありかもしれない」
そう思った瞬間が、確かにあった。
気づけば、
少しだけ心を奪われていた。
けれど、
そのままレジには向かわなかった。
理由を探そうとすると、
いくつも浮かぶ。
値段、時間、読む余裕、今じゃない気がする。
どれもそれらしく聞こえる。
考えることに慣れすぎている。
選ばないための理由を、
無意識に並べてしまう癖がついていた。
正直に言えば、
決定打になる理由は、ひとつもなかった。
それが良かったのか、悪かったのかも、
まだ分からない。
本を元の場所に戻した瞬間、
少しだけ、楽になった。
何かを選ばずに済んだ安堵。
判断を先延ばしにできた安心感。
「今日は何も決めなくていい」
そう、自分に許可を出した気がした。
それと同時に、
何も得ていないことも分かっていた。
これは前進ではなく、
一時停止だったのかもしれない。
本を手に取ったことは、
確かに行動だった。
けれど、
世界は何も変わっていない。
家に帰っても、
昨日と同じ夜が再生されただけだった。
動いたつもりで、
盤面はほとんど動いていなかった。
あの夜の一手は、
指されたようで、
指されていなかった。
手に取ったことを、
無かったことにはしたくない。
ただ、
あれは「一歩」ではなく、
空振りだったのだと思う。
不戦勝だった。

