指されなかった一手

買った本は、しばらく机の端に置かれていた。

視界の隅に、ずっとあった。

初めて出会ったその時のまま、そこにいる。

「今日は読もう」

そう思ったのは、義務感に近かったのかもしれない。

買ったのに読まないまま、という状態が

どこかで引っかかっていた。

読む気がなかったわけじゃない。

むしろ、読むつもりだった。

ただ、いきなりページを開くのは、少しだけ怖かった。

十年ぶりに会う友人に、こちらから声をかける前の感覚に似ていた。

まずは環境から。

そう考えて、机の上のものを片付け始めた。

山のように積み上がっていたものが整理され、

木の色が少しずつ目立っていく。

本を読むには、

集中できる場所が必要だと思った。

散らかった机では、内容が頭に入らない気がした。

明るさ、温度、クッションの位置。

いつもは気にならない部分が、やけに気になる。

正しい理由はいくつも浮かんだ。

だから手は止まらなかった。

整えること自体が、前に進んでいる証拠のように思えた。

牛乳を温めて、

ココアを溶かした。

特別な意味はなかったはずだ。

ただ、落ち着きたかった。

「ちゃんと始める準備ができている」

そう自分に言い聞かせるための、

小さな儀式だったのかもしれない。

まだ本は開いていない。

でも、この時点で

“何かをしている自分”にはなれていた。

ちょっとした充実の錯覚で、

その夜をやり過ごしていた。

いざ本を開こうとした頃、

時計は午後10時を指していた。

明日は仕事だった。

頭のどこかで、その事実がブレーキを踏んだ。

今から読み始めても、

中途半端になるかもしれない。

どうせ途中で眠くなる。

そんな声が、遅れてやってきた。

準備は整っていた。

けれど、始めるには遅すぎた。

思えばこの光景は、何度目なのだろう。

机は整っている。

ココアも冷めかけている。

本は、まだ閉じたままだ。

やろうとしたことは、間違っていない。

逃げたつもりもない。

ただ、一手は指されなかった。

その夜にあったのは、

読書ではなく、

「読む前の時間」だったのかもしれない。

ココアと一緒に、

その日の決意も冷めていった。

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